【第4回ツアーレポート】群馬・マクロビオティック和道編(1/3)

今回、2名が乗り合い希望ということで、新百合ケ丘にて待ち合わせ。

横浜でマクロビオティック治療院をやっている大久保さんからのご紹介。

勝手に40~50代と勘違いしていたので、お会いしてびっくり。なんと御歳73歳。

エネルギッシュな川角さんとおしとやかな安村さん。はるばるお越しいただき、ありがとうございます。

川角さんと安村さんは薬剤師。

川角さんはブラジルに長くお住まいで、著名なマクロビオティック指導者である菊池富美雄先生との親交が深かったとのこと。大病されたようですが、マクロビオティックを実践して克服されました。

安村さんもとても珍しい病にかかられたとのこと。6ヶ月前までは歩くことも困難でしたが、今はそんなことは嘘のようです。マクロビはゆるゆるやってらっしゃるとのこと。

とてもにぎやかに休憩なしで、あっという間に和道に着きました

前泊していた再名生さんと一緒に、富岡製糸場へ。実は和道から車で10分程度です。

あいにくの小雨でしたが、情熱的なシニアガイドさんには関係ありません。

そもそも富岡製糸場とは・・・

江戸時代末期、鎖国政策を変えた日本は外国と貿易を始めます。その当時最大の輸出品は生糸でした。生糸の輸出が急増したことにより需要が高まった結果、質の悪い生糸が大量につくられる粗製濫造問題がおきました。諸外国から生糸の品質改善の要求、外国資本による製糸工場の建設の要望が出されました。
明治維新後、富国強兵を目指した政府は、外貨獲得のため、生糸の品質改善・生産向上を急ぎます。しかし当時の民間資本による工場建設は困難な状況であったため、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場をつくることを決めました。
この模範工場の基本的な考え方は主に3つでした。1つ目は洋式の製糸技術を導入すること、2つ目は外国人を指導者とすること、3つ目は全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地へ戻り、器械製糸の指導者とすることでした。
こうした考え方をもとに雇い入れられたフランス人、ポール・ブリュナの指導のもと、西洋の技術を取り入れた官営模範器械製糸場(富岡製糸場)が設立されたのです。(HPから抜粋)

唯一入れる建物がこちら。まさに和洋折衷。レンガ造りです。

しかし、当時日本には「レンガ」の技術はありませんでした。

「瓦」職人が腕をふるいました。その証拠がそこかしこに。

「我ここにあり」という印が、レンガに刻印されています。

(上、八に二。下、○)

緻密な計算のもと組み合わされた木にボルト。

大きな地震があっても、びくともしません。

ガラスも当時日本にはほとんどなかったとのこと。

そのため、製造技術が確率されておらず、すりガラスのようなものもあれば、表面が凹凸しているものもあります。

ガラスが多いのは工場長のブリュナの「よい仕事をするには、よい環境がなければならない」という方針により、太陽の光が十分に入るように設計したからとのことです。

工場内には診療所もあります。外観は「となりのトトロ」に出てくる病院と同じよう。

しかし、中は和室。なぜならここは日本で、従業員のほとんどは日本人だから。リアリティを感じました。

最後に知的に感動したお話を。

製糸場の糸の原料は、蚕の繭ですが、蚕の数え方を知っていますか?

「頭」らしいのです。

貴重な生き物の数え方。ちなみに蝶々の「オオムラサキ」も同じ。

ここに、日本語の奥深さを感じました。

だいぶ肌寒くなってきました。そろそろ和道に帰りましょう。

ここからがマクロビステイツアーの本領発揮。

体を温めるなら「生姜」。

ということで、生姜風呂にすることにしました

早速、生姜をすりおろし始めます。  

都会では贅沢です。おそらく、2,000円相当を一気にすりおろしていきます。

みなさんの奮闘ぶりは以下動画にて。

 ちなみに、すりおろし器がすりおろしやすくてみなさん感動していました(なんていう名前だったかな)。

生姜のいい香りと成分が飛散したこと、それぞれ体を動かしたので、体がぽかぽかしてきました。

時代は「省労働」傾向ですが、それによって体は冷えやすい。

冷えを感じたら、一心不乱に生姜をするのはいかがでしょうか。

この時点で最後の参加者、大久保さんも合流。

汗だくでした。上州一ノ宮駅から歩いて(30分)来られたとのこと。

同じ年代の中年男性のほとんどは、たぶんタクシーで来ると思いますよ。

さて、お腹も減ってきていて早くご飯を食べたい一行ですが、その前に磯貝先生からの講義があります。

これは次の回に。